新戦力として2022年9月よりPRUMに参画した中村大雅(たいが)さん。エンジニアをはじめ、社会人としての豊富な経験からCOOポジションでPRUMの成長をさらに加速させていくミッションを遂行します。
30歳を超えてからエンジニアを目指した大雅さんの遍歴とともに、今後のPRUMの展望についてインタビューしています。
エンジニアとはかけ離れたミュージシャンの道を目指していた
もともとは、小学生の時にミュージシャンになろうって決めたんです。そこからは音楽をやることしか考えていなくて、人生イコール音楽だったんですね。中学校に入ってギターを始めてバンド活動も始めて、20代もそのままいくつかのバンドを経験したんですけど、単純にずっと音楽で生きていくんだと思っていました。
ただ、はじめは俗にいう貧乏バンドマンで、食べれないのでバイトをしていましたね。料理が楽しそうだったので調理師のバイトをしたり、バーテンダーをやってみたりと、食いぶちはバイトでやりたいことはバンドという生活を20代では送っていました。
そのうち軌道に乗って、CDリリースをはじめ国内・海外ツアーもできるほどになり、なんとなくずっとこのまま行けるんだろうなと感じ始めた20代後半、それまで100%だった情熱が急に99%になった感覚があったんです。
もともと0か100の思考性が強いので、好きなことに100じゃない自分にガッカリしました。このまま続けても面白くないなと。そこでやめようかなと思ったのですが、すぐには辞めずしばらくズルズルしてから辞めました。
30代目前、何をやるかは東京で考えよう
当時、地元大阪でバンド活動をしていたのですが、辞めたら大阪にいる必要はないと思いました。せっかくだからどこかに行こう。海外でも沖縄でも北海道でも良いけど、とりあえず日本の中心、東京に行こう。あとは行ってから考えようと。
振り返るとそこが分岐点でしたね。20代後半で東京に来て、そのまま2、3年。東京のバンドを手伝いながらバイトもして……。結局大阪時代の下位互換のような生活でした。
さらに30歳の時、バイト先でマネージャーとそりが合わずにクビになってしまいました。その時に、30過ぎてこのままズルズルとバイトをするのも違うし、飲食で独立するのも違うな。「自分は何をやりたいのか、何が向いているのか」と過去を振り返ってみました。
考えた結果、「ものづくり」っていうのがひとつあったんですね。昔からDIYなど想像したものを形にするプロセスが好きでした。それまでに経験した調理も曲作りもカクテルもすべてに共通すると思って、想像したものを形にする仕事をしようと思ったんです。
花屋になろう、でもウェブデザインも向いてるな
そこで最初に思い浮かんだのが花屋さんだったんですね。バーテンダー時代、「お任せでカクテル作ってください」と言われるのが好きだったこともあり、花束もカクテルと似ているなと思いました。
実際にハローワークの就職相談で、花屋さんになろうと動いている時に、たまたまハローワークの壁にウェブデザインを学ぶ職業訓練校のポスターがあったんです。
そこで直観的に「これも俺に向いてるやつや!」って思ったんですよ。1年間学べる訓練校で、簡易的な入学試験を受けて面接して、たまたま受かって卒業と同時にウェブ系のSES企業に就職したのがエンジニアキャリアのスタートなんです。
── エンジニアの職業訓練校で、実際に学んだ内容はどんなものだったんですか?
学科でウェブデザイン全般を学びました。HTML/CSSといった基本的なところから、バックエンドのデータベース設計とか全部含めて一通りウェブシステムを学ぶみたいな感じですね。当時は時代的にまだフロントエンドがなく、MVCという従来の1つの言語で作るといったものでした。
30代、エンジニアキャリアのスタート
僕の場合、20代で自分のやりたいことに従って生きてきたので、自分には何が向いているのかある程度理解できていたと思うんですね。
花屋さんとかエンジニアとか、やったことはないけど向いてるだろうと思っていました。エンジニアとして就職した後も思ったとおり向いていたと確信しています。(笑)
エンジニアとして初めての就職は、募集条件が20代までのところに30か31歳で面接を受けさせてもらいました。「俺、未経験ですけど絶対向いてるから雇った方がいいですよ」というテンションで行ったんです。
その時の担当が叩き上げの営業マンで、こいつおもろいなみたいな感じで拾っていただきました。
SES企業なのでそれぞれ現場に配属されます。僕の場合、本当に運良くやりたいことをやらせてもらえる環境でしたね。実際は職業訓練校で学んだ技術が直結するものではなかったんですけど、ウェブシステムの概要を掴めていたので、その中で今自分は何をやっているのか理解していることは結構大きかったですね。
僕は職業訓練校で学んだ中でもJavascriptを使って画面で見えるものを作るのが楽しかったので、希望を出すとゲーム会社に配属されてアニメーションを担当するような仕事に就くことができました。
プログラミングが楽しくてずっとパソコンに向かっていた
── 実際わからないことも多いけど、プログラミングがすごく楽しいから続けられたという感じですね。
通勤電車でもずっと本を持って学習して、週末も朝から晩まで大きな本屋さんの座って読めるスペースに技術書を積んで読んでいました。
代表の岩本とは真逆です。彼は駆け出しエンジニア時代にやりたいことなんてやれたことがないと言ってますが、僕はやりたいことしかやらせてもらってないんです。
── 当時でもピンからキリまでいろんな現場があるわけですよね。
面談時に面白がって僕を拾ってくれた上司の存在が大きいですね。採用後もずっと僕のバックアップを全力でやってくれて、「現場でいっぱい勉強してください」と常に協力的でした。
ただ、当時所属していた会社や現場に教育システムがあったわけではなく、ひたすら現場でゴリゴリ勉強しながら時間をかけて作り上げていくハードな環境でした。
だけど大変だと思うこともなく、とにかく楽しくて毎日没頭していました。エンジニアキャリアのスタートがそこで、スキルもある程度上がると他のプロジェクトの打診をされるので1社目でいろんな現場を経験できました。
マネージャーとしてシステム開発会社に転職
そのうちお世話になっていた上司が独立するということで声をかけていただき、2社目はマネージャー待遇で新しい開発会社に入りました。
採用や教育をはじめ、技術部全般の足りないところを社長と考えて作っていましたね。そのままの流れで2年ほどでCTOになりましたが、エンジニアも増えて受託や自社サービスなどの事業拡大と同時に取締役に就任しました。
当時その会社は、経営層がSES営業上がりの取締役3人だけですごく偏っていたんですね。彼らにとっての当たり前が技術者からしたらやりづらい会社になっていたので、技術者上がりの人間が入る必要があったんです。
ただ、実質3対1の構図になるのでストレスが大きかったですね。社員の大半を占めているのがエンジニアなので、経営層とのアンバランスなところの真ん中で経営層側なのに孤立してる感じだったんです。
今もまだまだですが、当時はもっと未熟でした。課題やミッションを抱えすぎてどれも上手くやれず、会社に不利益を被る形となってしまったんですね。一度少し休みをもらい、社長を相談して結局戻らずに退職することになりました。
フリーランスという名のプー太郎になるも、また東京へ
そこからは地元の大阪に戻りましたが、フリーランスという名のただのプー太郎で全然何にもやってなかったんですよ。精神的にもだいぶ落ちて、鬱状態だったのでとりあえず休養していました。
1年半経ってそろそろ働かなあかんという時に、たまたま東京の知り合いから連絡をもらったんです。「こういうプロジェクトがあるんだけど、ちょっと手伝ってくれない?」と。さらに「現場に最低週一で行ってほしい」と言われたので、そこから2週間ぐらいで部屋を決めて、また東京に戻ってきてやっとフリーランスとして仕事をし始めました。
そこから1年ぐらいしてからですかね。フリーランスから法人成りで会社を立ち上げました。ただ、会社を作ってもフリーランスの時と変わらず、どこかのプロジェクトに入ってプログラマーをするんですね。そんなにやりたいこともやれず、どうしようかなと思っていた時に、知人の紹介で代表の岩本と知り合いました。
PRUM代表岩本との出会い
彼は当時まだ20代後半で、PRUMを立ち上げたばかりでした。そこから仲良くなって何度か飲みに行くことはあったのですが、ある日「大雅さん、会いましょう!」といつものように連絡をもらったんですね。
その時になぜか「真面目な話?いつもみたいにはっちゃける感じ?」って聞いたんですよ。そこで返答が「真面目な方で」だったんです。
結果的に内容はPRUMを手伝ってほしい。という打診で「日本で一番エンジニアが成長できる会社を創る」PRUMの事業や未来予想図を詳しく聞きました。
僕は昔から子供と関わることが好きで、世界中の子供たちのために何かしたいという想いがずっとありました。近所の子供と遊んだりギターを教えたりすることがすごく好きだったんですね。
そういう経験と、ITで得た知識を生かした子供の未来を良くする事業をつくろうと会社を立ち上げた経緯もあり、子供の未来=日本の未来を心配するマインドを持っていたんです。
このままで子供たちは幸せになれるのかな。日本は衰退しているし、このまま行ったら危ないぞ、日本をなんとかしないといけないと。そんな考えを持っている時の岩本からの打診で、日本で優秀なエンジニアが育つことと、僕が心配する日本の未来に対する不安の解決が結びついたんです。
じゃあ、僕もこの日本で「優秀なエンジニアを育てることに力を注いで未来に繋げたい」と思ってPRUMへの入社を決めたんです。もともと一人社長の会社だったので、フットワークが軽かったのもあります。
COOとしてPRUMを成長させること
── PRUMにはCOOというポジションで入られたとのことですが、具体的にどんなことをやっていくのかをお聞きしてもいいですか?
まだ入社して日が浅いので、具体的に何をするかを考えるフェーズです。まずは社長がやるべきことにもっと注力してもらいたいので、今まで岩本が1人で抱えていたものを切り分けて引き継ぎつつ、足りなかったものを補えるようになりたいです。
ただ、役割は分けつつも常にCEOとCOOはニコイチでありたいと思っています。実行部隊の長として、まずは課題の洗い出しが必要で今やっていることは状況把握ですね。どんな社員がいて、どういう組織で、それぞれがどういう動きをして、どんな風に連携がとれていて、どこが密でどこが薄いとか。そういった情報の把握をして、その問題を一つずつ解決していこうと思っています。
大きな目標としては、やはりエンジニアを育てていくことです。
優秀なエンジニアって答えがひとつじゃないと思っています。そして日本のためにというのは経営層の僕らが思っていることなので、社員一人ひとりの幸せとは直結しないこともあると思うんです。
1番大事だと思うのは、それぞれが描いてる幸せな未来を実現するためにPRUMがふさわしい環境でありたいと思うんですよ。その軸の一つが、「エンジニアが育つ」なので、幸せになれたらどんな会社でもいいという訳ではないです。
あくまで幸せになることのひとつとして、「エンジニアが望んだ成長ができる」ことで、その仕組みを作ることが僕のミッションの大きなひとつという解釈をしています。